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セッション①

2018年04月19日

セッション①

ぼくは「セッション」という映画があまり好きではない。

正確に表現すると、涙を流すほど感動したが好きとは言いたくないのである。

いつだったか年末に実家に帰省したときに布団の中で観て、最終的にエンドロールではしっかり涙まで流して感動した。ところが見終わったあとに違和感みたいなものがもやもや続いて、その正体がわかった途端に好きとは違った感情が生まれたのだ。

あるドラムマンと厳しい指導をするドラム教師とのプロフェッショナリズムなのか意地の張り合いみたいなものをドラマチックに表現したような作品で、スカッとする場面が多い。愚直な頑張りを励まされるような気にさせられるので好きな人は多いと思う。実際アカデミー賞にも輝いた。

ところが涙を流して映画のエンドロールを眺めながらこの映画の総評を考えていると、特にテーマらしきものが思い浮かばない。プロフェッショナリズムやストイックさと言われればそうだけど、ノンフィクションならまだしもこれはフィクションなのだ。架空の人物とありえない展開でそんなものを見せられても納得感がまるでなかった。序破急なストーリー展開で興奮させられるシーンが多いが、そのストーリーには特に意味はなく、舞台設定はドラムマンである必要もない。ただストーリー展開が極端にドラマチックなのだ。ぼくは一体何に感動していたのか?もしかしてこの作品にはメッセージがない?結果たどり着いた答えは、この映画は「刺激だけで成り立つ作品」であるということだ。

こういった気づきを与えてくれたのが「セッション」で、涙さえ流してしまったが好きとは言いたくない、本能と理性のはざまを感じさせてくれる個人的な戒めとして今でも常に印象に残り続けている。

実は、ゲームにも同じことが言える。冒険の楽しさやレベルアップの達成感、ストーリーへの没入がヒロイックな刺激を与え娯楽として成り立たせてくれるのがゲームの醍醐味だ。しかしこれらの刺激は心理学の一部であり、倫理的に悪用してはならない。なぜならこういった刺激は本能レベルで人間の心理に影響し、さらには意思決定さえコントロールできなくなってしまうからだ。意思決定のコントロールを奪われると無意識に従ってしまったり、感情を抑えきれず涙さえ流してしまう。ゲームとはこのコントロールに自ら身をゆだねることで楽しい気持ちにさせてくれるものであるが、それが悪用されてしまった途端マインドコントロールへと変貌してしまう。こういった心理学の悪用はデザイナーを含むクリエイティブに関わる者の超えてはならない一線だ。

デザイナーがユーザーと目的を共有してこそ、コントロール権は委ねられる。目的の共有なきデザインは、マインドコントロールに他ならないのだ。


長くなりそうなので今回はここまで。一昨年あたりからずっと考えてきたことをようやくまとめられて嬉しい。

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2018年04月19日

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自己紹介
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KEISUKE TSUKAYOSHI

UX Strategist / UI Designer.

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